孤独の雨 --Lonely Rain--


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孤独の雨
   −LonelyRain−


――わたしはいつも、独りだった。
  あの雨の日が来るまでは。


 その日もわたしは独り、座っていた。
 誰もいない、雨の日の公園のベンチに。

 どうして? ――そんなこと訊かれても、困る。
 いつから? ――わたしは今日が『いつ』なのかも知らない。

 それがまるで義務であるかのように、わたしはそれを続けていた。

 時には雨の日の公園にも、人が来ることはあった。
 意外といろんな人が、ここを訪れるものだ。
 でも、わたしに声をかけた人は誰もいなかった。
 ‥‥まるでわたしが、見えていないみたいに。
 それでもわたしはいつも、雨の日の公園で座っていた。


 その日の雨は、ひどいどしゃ降りだった。
 わたしは変わらず、ベンチに座っていた。
 濡れて重くなった服の気持ち悪さも、もう気にならなくなっていた。
 ただ、時折身体に叩きつける大粒の雨が痛くてちょっと嫌だった。
 そうして水溜まりで撥ねる雨粒をぼんやりと見ていたときだった。
 不意にわたしに当たるはずの雨が遮られたのは。
 見上げると、わたしの前に傘をさした人が立っていた。
 背の高い、男の人だった。

「風邪、引くぞ。」

 その人はそれだけを言って、しばらくそのまま立っていた。
 他に何をするでもなく。
 他に何を訊くでもなく。
 ただ座っているわたしに雨が当たらないようにしているせいか。
 背の高い彼の肩は、しっかり雨に濡れてしまっていた。
 自分が風邪を引くのは、構わないのだろうか?

 どれくらいそうしていただろうか。
 わたしに動く気が無いのを知ると、彼はわたしに傘をさしだした。
 彼は半ば強引にわたしに傘を持たせると、走って行ってしまった。

「‥‥もらっても、仕方ないのに。」

 何の飾り気も無いその傘は、彼をそのまま表しているかのようだった。


 その日の雨は、霧雨だった。
 わたしは変わらず、ベンチに座っていた。
 ただ一つ、今までと違うことがあるならば。
 その日は傘を差していたこと。
 真っ黒な、飾り気の無い傘だった。

「きみは雨の日が好きなのかい?」

 その傘の上から、声が掛かった。
 声の主は、この真っ黒な傘の持ち主だった。
 わたしはこの傘を返そうかと思ったけど、彼も傘をさしていた。
 この傘に良く似た、やっぱり真っ黒な傘だった。

「‥‥わたしは、雨は嫌い。」

 そう、わたしは雨が嫌い。
 理由を訊かれても、やっぱり困るけど。

「そうか‥‥」

 彼はそれ以上は何も訊かず、その日は歩いていった。


 その日の雨は、しとしと降る雨だった。
 わたしは変わらず、ベンチに座っていた。

「やあ。また会ったね。」

 傘の上から、声が掛かった。
 その日の彼は、いつも以上に変だった。
 自分で傘をさしているのに、もう一本新品の傘を手に持っているなんて。

 彼はわたしの前で、そのもう一本の傘を広げた。
 彼らしくない、明るい色の傘。
 淡い緑色をベースに花柄の模様が入った、かわいい傘だった。

「どう考えてもきみに真っ黒な傘は似合わないと思ったからね。」

 それだけいうと、彼はわたしに今までの傘のかわりにその傘を持たせた。
 それが済むと、彼は歩いていってしまった。


 その日の雨は、優しい雨だった。
 わたしは変わらず、ベンチに座っていた。
 違うことがあるとするなら、かわいい傘をさしていたことだろう。

「やあ。久しぶり。」

 久しぶりなのだろうか。わたしには良く分からない。
 でも彼がそう言ったのだから、多分久しぶりなんだろう。

「きみは何かを待っているのかい?」

 確かにそれは当然の疑問かも知れない。
 雨が嫌いなくせに、ずっと雨の中座っているなんて。

「多分、違うと思う。」

 だってわたしには、待つものなんて無いのだから。

「そっか‥‥」

 彼は相変わらずあまり多くを訊こうとしない。
 ただその日は、今までより長くいた気がした。


 その日の雨は、夕立だった。
 わたしは変わらず、ベンチに座っていた。

「きみはこういう日でもいるんだね。」

 わたしには、それがどういう意味を持っているのか分からなかった。

 その日の彼は、傘を持っていなかった。
 強い雨の中を来たせいか、彼はずいぶんと濡れてしまっていた。
 髪の毛から雫が滴るくらいに。
 わたしは傘を返そうとして、差し出そうとした。

「いや、どうせ通り雨なんてすぐ止むから。」

 その行為は、彼のその言葉で遮られた。

「でも‥‥」
「だったら、雨脚が少し弱まるまで傘に入れてもらっていてもいいかな?」

 だからこの傘は、もともとあなたのものなのに。
 わたしに断る理由もなく、彼を傘の中に入れようとした。
 ‥‥届かない。
 それも当たり前のこと。
 わたしは立ち上がって、彼を傘の中に招き入れた。
 ほんの一瞬だけ、彼が意外そうな顔をした気がした。

 わたしはもう一度、彼に傘を渡そうとした。
 でも彼は、どうしても持ってくれなかった。

 ‥‥傘を返そうとしたんじゃなくて。
 ‥‥それもあったかも知れないけど。
 こういう時、傘って男の人が持ってくれるものだと思ったのに。

 そのあとわたし達はお互いに言葉を交わすことも無く。
 やがて雨脚が弱まると、彼は走って行ってしまった。


 その日の雨は、嵐だった。
 わたしは変わらずベンチに座っている、はずだった。

「あっ!」

 一際強い風が吹いたその時。
 わたしの手から、傘が飛ばされてしまっていた。
 傘はそのまま、どこか遠くまで行ってしまった。
 まるでわたしから、逃げていくように。

 何故かわたしは、すごく悲しい気分になった。
 もともと傘なんて、持ってなかったのに。

 その日、彼は来なかった。


 その日の雨は、冷たい雨だった。
 わたしは変わらず、ベンチに座っていた。
 わたしは変わっていないと思っていた。
 違うことがあるとするなら、傘が無くなったことだけだと思っていた。

 でも、その日の雨は冷たかった。
 服が濡れて重くなることが、気持ち悪くてたまらなかった。
 まるで身体が雨というものに犯されていくようだった。

 こんなの、慣れっこだったはずなのに。
 どうしようもなく、嫌だった。

 その日も彼は、来なかった。

 独りなんて、当たり前だったのに。
 どうしようもなく、寂しかった。


 その日の雨は、どんな雨だったろう。
 喪失感に満たされたわたしは、どんな風に見えたろう?

 ‥‥おかしな話。
 もともとわたしを――

「やあ。元気無さそうだね。」

 いつもと変わらない調子で、彼が言った。
 初めて会った日のように、わたしに当たるはずの雨を傘で遮りながら。

「病み上がりの僕より元気無さそうなんて、今度はきみが風邪を引いたんじゃないか?」

 風邪を引いてたんだ‥‥。
 今までの彼の行動を考えると、それも当たり前のような気がした。

「って身体、冷え切ってるじゃないか!」

 いつの間にか、彼はわたしの手に触れていた。

 わたしの身体が冷たいのなんて、当たり前。
 だって、わたしは――
 ‥‥わたしは?
 今、わたしは何を思ったのだろう?

 わたしは、自分の思考を振り払うように言った。

「大丈夫だから‥‥」
「大丈夫、じゃない。こんなに雨に当たって冷えた身体で何を言っているんだ。」
「大丈夫なの‥‥。」

 少しの間だけ、重い沈黙が流れた。

 彼はしばらく考え込んでいた。
 でもそれも少しの間。
 やがて彼はわたしに顔を向けた。
 何かを決意したように、あるいは何かをあきらめたように。
 彼はわたしに傘をさしだした。
 初めて会った、あの日のように。

 でもわたしは、首を横に振った。

「病み上がりって、言ったよね。」

 そう言って、受け取らなかった。

 ――本当は、とても欲しかったのに。

 彼は本当に、困った顔をした。
 こんな些細なことで、彼は真剣に悩んでいるみたいだった。
 やがて彼は、深いため息をついた。

「風邪、引くなよ。」

 そうして彼は歩いて行った。

 風邪を引かないで欲しいと思ったのは、わたしの方だった。


 その日の雨は、小雨だった。
 わたしは変わらず、ベンチに座っていた。
 2つだけ違うことがあるとするなら。
 1つは待つものがあるということ。
 そしてもう1つは。

 座っていることさえ、辛いということだった。

「――りしろ!」

 りしろ?

「しっかりしろって!」

 気が付くと、わたしはベンチの上で倒れていた。
 心配そうにわたしを揺さぶっている彼。
 近くには、傘が2本、転がっていた。
 一本は、開かれた真っ黒の傘。
 もう一本は、閉じた淡い色の傘。

 またわたしに、傘をくれるのかな?
 お気に入りの、花柄の傘かな?
 だったら、うれしいな。

 ちゃんと傘をささなきゃ、また風邪引くよ?
 風邪引いたら、来てくれないでしょ?
 そんなのわたし、いやだよ。

 ぼんやりした頭は、気持ちがとてもストレートだった。

「やっぱり傘を持たせておくべきだった‥‥!」
「そんなことしてたら、今頃あなたが風邪引いてた。」
「それでもだ!」
「それより、ちゃんと傘をささないと、また風邪引くよ。」
「人のことより自分の心配をしろ!」
「それ、人の事言えない。」
「とにかくこの冷え切った身体を暖めなきゃな‥‥」
「わたしは大丈夫だから‥‥」
「大丈夫なものか!!」

 今までに無い、強い口調だった。
 同時に、彼はわたしを強く抱きしめた。
 たぶん純粋に、わたしを暖めるために。

「大丈夫なんて、軽々しく言うな。」

 何かそれは、とても重たい言葉のような気がした。

「昔、というほど前でもないけど‥‥僕には以前恋人がいた。」

 何か、聞いてはならない話のような気がした。
 同時に、絶対に聞かなくてはならない話のような気がした。

――とても可愛い娘だったよ。
  こういうことを言うと嫌がるかもしれないが‥‥きみはその娘に似ている。
  姿も、言葉も、行動も。
  彼女はよく『大丈夫』なんて言葉を使った。
  僕はそれを信じて、彼女がそういう間はさほど心配もしなかった。
  あの日もそうだった。
  僕と彼女の最後のデートの日。
  直前になって彼女は風邪の引き始めになって、僕は『やめようか?』と言った。
  でも彼女は『大丈夫』と言った。
  僕はそれを信じて、予定通り、待ち合わせをすることにした。
  その日は、よく晴れた朝だった。
  でも、昼前に雲行きが怪しくなり、やがて雨が降り始めた。
  待ち合わせの1時間前。
  彼女はどういうわけか、待ち合わせにはかなり早く来る。
  僕は『僕は時間通りにしか行けないぞ』といつも言っていたのに。
  その日も僕は、時間ぎりぎりにしか行けなかった。
  行く途中から、心配でたまらなかったよ。
  待ち合わせ場所に着くと、案の定彼女はずぶ濡れだった。
  『すぐに帰って暖まろう』と僕は言った。
  でも彼女は、『わたしは大丈夫だから、予定通り。』と言った。
  結局彼女に言い負かされて、その日は予定通り、デートを楽しんだよ。
  彼女も楽しそうだった。辛いそぶりなんか全然見せなかった。
  ‥‥その後、彼女は風邪をこじらせた。
  普通だったら、ひどい風邪、程度で済んでただろうと思う。
  でも彼女は、生まれつき身体が丈夫じゃ無かったんだ。
  僕はそれを、その時まで全く知らなかった。
  彼女が息を引き取る、その寸前まで。

 彼の話が、わたしの記憶を揺さぶる。
 わたしは一体誰なのか。
 わたしは一体何なのか。
 わたしは何故ここにいたのか。
 わたしは何をしていたのか。
 思い出してはならないことを、
 思い出さなきゃいけないことを、
 封じられていた、その記憶を、
 いま、すべて、思い出した。

「‥‥それ、わたしだ‥‥。」

「そっか‥‥そういうことって、あるんだね‥‥。」

 彼は、わたしを抱きしめる腕に、ぎゅっと力を込めた。
 わたしはちょっと痛かった。

「わたし、ずっと、あなたを待ってた。」
「この前は違うって聞いたけどな?」
「だって、それは――」

 それは、あの時は、分からなかったから。
 今なら、分かる。

「冗談だって。僕だって、分からなかったんだから。」

 それでもわたしに、傘をくれた。
 分からなくてもわたしを、心配してくれた。

 そんな優しいあなたに、最後に言わなくちゃいけない事がある。

「わたし、あなたに、ごめんなさいが言いたかった。」
「別にいいって。こうしてまた会えただけでも、僕は十分さ。」
「‥‥ありがと。」

 うん。本当に、ありがとう。

 そして――

 2人は自然に、抱擁を解いた。

「この傘、もらっていってもいいよね?」

 わたしは淡い色の傘を拾い上げた。
 広げてみると、やっぱり花柄の傘だった。
 この前の傘と、全く同じ傘。
 わたしの、お気に入りの傘。

「ああ、もちろん。」

 彼も自分の傘を拾って――
 そして、閉じた。

 雨はもう、止みかかっていた。
 この雨が止んだら、次に雨が降っても、わたしはここにいないだろう。
 ずっと言えなかった事が言えたわたしには、
 もう、ここに留まる理由も、想いも、無いのだから。

「もう一度だけ、抱きしめて。」

 それは、最後の、別れの挨拶。

 2人は自然にキスをして――

 雲の隙間から日が差し込むのと同時に、

 わたしは、消えた。

 ――心に、彼の暖かさを感じて。


――わたしはいつも、独りじゃなかった。
  待っている時っていうのは、
  待っている人の事を、
  一番強く想っているときでしょう?


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-- Piece of Phantom --
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