孤独の雨 --Lonely Rain--
孤独の雨
−LonelyRain−
――わたしはいつも、独りだった。
あの雨の日が来るまでは。
*
その日もわたしは独り、座っていた。
誰もいない、雨の日の公園のベンチに。
どうして? ――そんなこと訊かれても、困る。
いつから? ――わたしは今日が『いつ』なのかも知らない。
それがまるで義務であるかのように、わたしはそれを続けていた。
時には雨の日の公園にも、人が来ることはあった。
意外といろんな人が、ここを訪れるものだ。
でも、わたしに声をかけた人は誰もいなかった。
‥‥まるでわたしが、見えていないみたいに。
それでもわたしはいつも、雨の日の公園で座っていた。
*
その日の雨は、ひどいどしゃ降りだった。
わたしは変わらず、ベンチに座っていた。
濡れて重くなった服の気持ち悪さも、もう気にならなくなっていた。
ただ、時折身体に叩きつける大粒の雨が痛くてちょっと嫌だった。
そうして水溜まりで撥ねる雨粒をぼんやりと見ていたときだった。
不意にわたしに当たるはずの雨が遮られたのは。
見上げると、わたしの前に傘をさした人が立っていた。
背の高い、男の人だった。
「風邪、引くぞ。」
その人はそれだけを言って、しばらくそのまま立っていた。
他に何をするでもなく。
他に何を訊くでもなく。
ただ座っているわたしに雨が当たらないようにしているせいか。
背の高い彼の肩は、しっかり雨に濡れてしまっていた。
自分が風邪を引くのは、構わないのだろうか?
どれくらいそうしていただろうか。
わたしに動く気が無いのを知ると、彼はわたしに傘をさしだした。
彼は半ば強引にわたしに傘を持たせると、走って行ってしまった。
「‥‥もらっても、仕方ないのに。」
何の飾り気も無いその傘は、彼をそのまま表しているかのようだった。
*
その日の雨は、霧雨だった。
わたしは変わらず、ベンチに座っていた。
ただ一つ、今までと違うことがあるならば。
その日は傘を差していたこと。
真っ黒な、飾り気の無い傘だった。
「きみは雨の日が好きなのかい?」
その傘の上から、声が掛かった。
声の主は、この真っ黒な傘の持ち主だった。
わたしはこの傘を返そうかと思ったけど、彼も傘をさしていた。
この傘に良く似た、やっぱり真っ黒な傘だった。
「‥‥わたしは、雨は嫌い。」
そう、わたしは雨が嫌い。
理由を訊かれても、やっぱり困るけど。
「そうか‥‥」
彼はそれ以上は何も訊かず、その日は歩いていった。
*
その日の雨は、しとしと降る雨だった。
わたしは変わらず、ベンチに座っていた。
「やあ。また会ったね。」
傘の上から、声が掛かった。
その日の彼は、いつも以上に変だった。
自分で傘をさしているのに、もう一本新品の傘を手に持っているなんて。
彼はわたしの前で、そのもう一本の傘を広げた。
彼らしくない、明るい色の傘。
淡い緑色をベースに花柄の模様が入った、かわいい傘だった。
「どう考えてもきみに真っ黒な傘は似合わないと思ったからね。」
それだけいうと、彼はわたしに今までの傘のかわりにその傘を持たせた。
それが済むと、彼は歩いていってしまった。
*
その日の雨は、優しい雨だった。
わたしは変わらず、ベンチに座っていた。
違うことがあるとするなら、かわいい傘をさしていたことだろう。
「やあ。久しぶり。」
久しぶりなのだろうか。わたしには良く分からない。
でも彼がそう言ったのだから、多分久しぶりなんだろう。
「きみは何かを待っているのかい?」
確かにそれは当然の疑問かも知れない。
雨が嫌いなくせに、ずっと雨の中座っているなんて。
「多分、違うと思う。」
だってわたしには、待つものなんて無いのだから。
「そっか‥‥」
彼は相変わらずあまり多くを訊こうとしない。
ただその日は、今までより長くいた気がした。
*
その日の雨は、夕立だった。
わたしは変わらず、ベンチに座っていた。
「きみはこういう日でもいるんだね。」
わたしには、それがどういう意味を持っているのか分からなかった。
その日の彼は、傘を持っていなかった。
強い雨の中を来たせいか、彼はずいぶんと濡れてしまっていた。
髪の毛から雫が滴るくらいに。
わたしは傘を返そうとして、差し出そうとした。
「いや、どうせ通り雨なんてすぐ止むから。」
その行為は、彼のその言葉で遮られた。
「でも‥‥」
「だったら、雨脚が少し弱まるまで傘に入れてもらっていてもいいかな?」
だからこの傘は、もともとあなたのものなのに。
わたしに断る理由もなく、彼を傘の中に入れようとした。
‥‥届かない。
それも当たり前のこと。
わたしは立ち上がって、彼を傘の中に招き入れた。
ほんの一瞬だけ、彼が意外そうな顔をした気がした。
わたしはもう一度、彼に傘を渡そうとした。
でも彼は、どうしても持ってくれなかった。
‥‥傘を返そうとしたんじゃなくて。
‥‥それもあったかも知れないけど。
こういう時、傘って男の人が持ってくれるものだと思ったのに。
そのあとわたし達はお互いに言葉を交わすことも無く。
やがて雨脚が弱まると、彼は走って行ってしまった。
*
その日の雨は、嵐だった。
わたしは変わらずベンチに座っている、はずだった。
「あっ!」
一際強い風が吹いたその時。
わたしの手から、傘が飛ばされてしまっていた。
傘はそのまま、どこか遠くまで行ってしまった。
まるでわたしから、逃げていくように。
何故かわたしは、すごく悲しい気分になった。
もともと傘なんて、持ってなかったのに。
その日、彼は来なかった。
*
その日の雨は、冷たい雨だった。
わたしは変わらず、ベンチに座っていた。
わたしは変わっていないと思っていた。
違うことがあるとするなら、傘が無くなったことだけだと思っていた。
でも、その日の雨は冷たかった。
服が濡れて重くなることが、気持ち悪くてたまらなかった。
まるで身体が雨というものに犯されていくようだった。
こんなの、慣れっこだったはずなのに。
どうしようもなく、嫌だった。
その日も彼は、来なかった。
独りなんて、当たり前だったのに。
どうしようもなく、寂しかった。
*
その日の雨は、どんな雨だったろう。
喪失感に満たされたわたしは、どんな風に見えたろう?
‥‥おかしな話。
もともとわたしを――
「やあ。元気無さそうだね。」
いつもと変わらない調子で、彼が言った。
初めて会った日のように、わたしに当たるはずの雨を傘で遮りながら。
「病み上がりの僕より元気無さそうなんて、今度はきみが風邪を引いたんじゃないか?」
風邪を引いてたんだ‥‥。
今までの彼の行動を考えると、それも当たり前のような気がした。
「って身体、冷え切ってるじゃないか!」
いつの間にか、彼はわたしの手に触れていた。
わたしの身体が冷たいのなんて、当たり前。
だって、わたしは――
‥‥わたしは?
今、わたしは何を思ったのだろう?
わたしは、自分の思考を振り払うように言った。
「大丈夫だから‥‥」
「大丈夫、じゃない。こんなに雨に当たって冷えた身体で何を言っているんだ。」
「大丈夫なの‥‥。」
少しの間だけ、重い沈黙が流れた。
彼はしばらく考え込んでいた。
でもそれも少しの間。
やがて彼はわたしに顔を向けた。
何かを決意したように、あるいは何かをあきらめたように。
彼はわたしに傘をさしだした。
初めて会った、あの日のように。
でもわたしは、首を横に振った。
「病み上がりって、言ったよね。」
そう言って、受け取らなかった。
――本当は、とても欲しかったのに。
彼は本当に、困った顔をした。
こんな些細なことで、彼は真剣に悩んでいるみたいだった。
やがて彼は、深いため息をついた。
「風邪、引くなよ。」
そうして彼は歩いて行った。
風邪を引かないで欲しいと思ったのは、わたしの方だった。
*
その日の雨は、小雨だった。
わたしは変わらず、ベンチに座っていた。
2つだけ違うことがあるとするなら。
1つは待つものがあるということ。
そしてもう1つは。
座っていることさえ、辛いということだった。
「――りしろ!」
りしろ?
「しっかりしろって!」
気が付くと、わたしはベンチの上で倒れていた。
心配そうにわたしを揺さぶっている彼。
近くには、傘が2本、転がっていた。
一本は、開かれた真っ黒の傘。
もう一本は、閉じた淡い色の傘。
またわたしに、傘をくれるのかな?
お気に入りの、花柄の傘かな?
だったら、うれしいな。
ちゃんと傘をささなきゃ、また風邪引くよ?
風邪引いたら、来てくれないでしょ?
そんなのわたし、いやだよ。
ぼんやりした頭は、気持ちがとてもストレートだった。
「やっぱり傘を持たせておくべきだった‥‥!」
「そんなことしてたら、今頃あなたが風邪引いてた。」
「それでもだ!」
「それより、ちゃんと傘をささないと、また風邪引くよ。」
「人のことより自分の心配をしろ!」
「それ、人の事言えない。」
「とにかくこの冷え切った身体を暖めなきゃな‥‥」
「わたしは大丈夫だから‥‥」
「大丈夫なものか!!」
今までに無い、強い口調だった。
同時に、彼はわたしを強く抱きしめた。
たぶん純粋に、わたしを暖めるために。
「大丈夫なんて、軽々しく言うな。」
何かそれは、とても重たい言葉のような気がした。
「昔、というほど前でもないけど‥‥僕には以前恋人がいた。」
何か、聞いてはならない話のような気がした。
同時に、絶対に聞かなくてはならない話のような気がした。
――とても可愛い娘だったよ。
こういうことを言うと嫌がるかもしれないが‥‥きみはその娘に似ている。
姿も、言葉も、行動も。
彼女はよく『大丈夫』なんて言葉を使った。
僕はそれを信じて、彼女がそういう間はさほど心配もしなかった。
あの日もそうだった。
僕と彼女の最後のデートの日。
直前になって彼女は風邪の引き始めになって、僕は『やめようか?』と言った。
でも彼女は『大丈夫』と言った。
僕はそれを信じて、予定通り、待ち合わせをすることにした。
その日は、よく晴れた朝だった。
でも、昼前に雲行きが怪しくなり、やがて雨が降り始めた。
待ち合わせの1時間前。
彼女はどういうわけか、待ち合わせにはかなり早く来る。
僕は『僕は時間通りにしか行けないぞ』といつも言っていたのに。
その日も僕は、時間ぎりぎりにしか行けなかった。
行く途中から、心配でたまらなかったよ。
待ち合わせ場所に着くと、案の定彼女はずぶ濡れだった。
『すぐに帰って暖まろう』と僕は言った。
でも彼女は、『わたしは大丈夫だから、予定通り。』と言った。
結局彼女に言い負かされて、その日は予定通り、デートを楽しんだよ。
彼女も楽しそうだった。辛いそぶりなんか全然見せなかった。
‥‥その後、彼女は風邪をこじらせた。
普通だったら、ひどい風邪、程度で済んでただろうと思う。
でも彼女は、生まれつき身体が丈夫じゃ無かったんだ。
僕はそれを、その時まで全く知らなかった。
彼女が息を引き取る、その寸前まで。
彼の話が、わたしの記憶を揺さぶる。
わたしは一体誰なのか。
わたしは一体何なのか。
わたしは何故ここにいたのか。
わたしは何をしていたのか。
思い出してはならないことを、
思い出さなきゃいけないことを、
封じられていた、その記憶を、
いま、すべて、思い出した。
「‥‥それ、わたしだ‥‥。」
「そっか‥‥そういうことって、あるんだね‥‥。」
彼は、わたしを抱きしめる腕に、ぎゅっと力を込めた。
わたしはちょっと痛かった。
「わたし、ずっと、あなたを待ってた。」
「この前は違うって聞いたけどな?」
「だって、それは――」
それは、あの時は、分からなかったから。
今なら、分かる。
「冗談だって。僕だって、分からなかったんだから。」
それでもわたしに、傘をくれた。
分からなくてもわたしを、心配してくれた。
そんな優しいあなたに、最後に言わなくちゃいけない事がある。
「わたし、あなたに、ごめんなさいが言いたかった。」
「別にいいって。こうしてまた会えただけでも、僕は十分さ。」
「‥‥ありがと。」
うん。本当に、ありがとう。
そして――
2人は自然に、抱擁を解いた。
「この傘、もらっていってもいいよね?」
わたしは淡い色の傘を拾い上げた。
広げてみると、やっぱり花柄の傘だった。
この前の傘と、全く同じ傘。
わたしの、お気に入りの傘。
「ああ、もちろん。」
彼も自分の傘を拾って――
そして、閉じた。
雨はもう、止みかかっていた。
この雨が止んだら、次に雨が降っても、わたしはここにいないだろう。
ずっと言えなかった事が言えたわたしには、
もう、ここに留まる理由も、想いも、無いのだから。
「もう一度だけ、抱きしめて。」
それは、最後の、別れの挨拶。
2人は自然にキスをして――
雲の隙間から日が差し込むのと同時に、
わたしは、消えた。
――心に、彼の暖かさを感じて。
*
――わたしはいつも、独りじゃなかった。
待っている時っていうのは、
待っている人の事を、
一番強く想っているときでしょう?
composed by Phant.F